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恐ろしくも美しい…真崎海岸と田老町

2012.04.01

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「熊の鼻」を後にし国道45号線を一路南下した。日はすでに落ち暗闇が訪れかけていた。津波の被害が大きかった田老町は日が落ちてから通ることになりそうで、それは被害の様相をあまり目にしたくない私にとっては幸いなことだった。

そんなとき、「真崎海岸」の表示板が目に入った。真崎海岸は、本来はこの日の予定に入っていたのを諦めていたのだが、迷ったあげくに場所だけでも確認しておこうとハンドルを切った。これが間違いだった。

1kmほども走ると、薄闇の中、津波の被害の大きさが現れ始めた。恐らくは観光地としての施設が多くあっただろう海岸近くは、土台を残すだけで、当然のことながら人気は全くなく、津波は今は引いているだけでまた襲ってくるような恐怖すら覚えた。海水浴場への道路は封鎖され、近くの展望台への上り道も半ばくずれている。くずれた展望台になんとか上がった。その風景は薄暗闇の中威圧的にせまり、恐ろしくも美しかった。

すっかり暗くなった国道45号線を走る。折角、震災の甚大な被害をできるだけ見ずにすまそうと選んだ今回の旅程だったが、最後の最後にその凄みを見せられてしまった。やはりその恐ろしさから目を背けるわけにはいかないのかも知れない。

田老町に入ると、暗闇の中信号だけが光っている。「見たくない」と思う反面、「見なければならない」との気持ちもあり、観念して車を停めて辺りを伺うと、高くそびえる防潮堤の中の町が、根こそぎ消滅していた。

その後、大槌町、陸前高田、南三陸町など、人気の全くない真っ暗闇の被災地から、逃げるように仙台まで走った。

夕暮れの中の絶景…熊の鼻

2012.04.01

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思案坂、辞職坂を後にして、小雨の中帰途についた。帰り道は仙台までの約300kmの夜の道になる。のんびりと走ろうと思っていた。国道45号線を南下していくと、途中「熊の鼻」の看板を見つけ、予定外であり、また夕刻で天気も悪かったが、岬の展望台に上った。

自然は気まぐれで、たとえ天気が悪くとも、思いもかけず本来の美しさを垣間見せてくれることがある。私は旅の途中では常にそれを期待し、そのような場に居合わせる幸運を狙っている。「熊の鼻」の展望台に上ると、北側には、断崖の上部は霧に覆われた小雨に煙る岬が悲しそうなたたずまいを見せている。南側は、まだわずかに残る青空からの夕日を受けて光る雲により、岬が黒々と優美なシルエットを見せている。

青空の下での黒崎や北山崎の絶景は、多くの観光客を魅了するものではあるが、私には今一つ情感に欠け物足りなさが残る。今回の北三陸の旅では、雨の小袖海岸、大唐倉の日の出、光り輝く黒崎や北山崎と、自然は様々な顔を私に見せてくれた。

その中で、この「熊の鼻」の絶景は、この日を締めくくるものとして十分なものだった。そのはずだった。しかし実はこれで終わりではなかった。

陸の孤島の伝説…思案坂・辞職坂

2012.04.01

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長慶天皇にまつわる伝説を伝える大宮神社に寄り、偉大な平民の切牛弥五兵衛の墓に手を合わせ、三陸海岸の景勝の地の「鵜の巣断崖」を巡った。

午前中は晴れわたっていた空模様もくずれ、いつのまにか空には薄雲が広がり、時折雨粒もおちてきた。夕暮れも近づき光も弱くなっていた。この日は真崎海岸まで予定していたが、日の光が持ちそうになかった。また、近くには、猟師たちの古くからの番小屋の「机浜番屋群」があるはずで、行きたいと思っていた場所だったが、当然堅固な建物であるはずもなく、津波で流されているだろう。

ここから先は、宮古にかけて津波の被害がひどかったはずだ。津波の被害の跡はできれば見たくはなく、夜の帰り道でスルーするつもりだった。このまま少し内陸を通る国道45号線を走り、田野畑物語にある「思案坂」と「辞職坂」を訪れ、帰途につくことにした。

この「思案坂」と「辞職坂」は、この地のあまりの厳しさに、田野畑に赴任するためにこの地を通った役人や教師が、行くか戻るかを迷い、辞職することを考えたという。この地は、かつてはリアス式海岸沿いに、アップダウンを繰り返す交通の難所であり、点在する集落は、何かあればすぐに陸の孤島と化した。

この地の歴史を肌で感じるためには、この「思案坂」、「辞職坂」を見る必要があると思っていたが、現在はこの地を走る国道45号線は、深い谷には橋がかけられ快適な走りが楽しめる地となっていた。それはこの地の観光や、物産の流通にとって良いことで、陸の孤島と化すことももうそうはないだろう。その深い谷は新緑や紅葉の時期には見事な風景も楽しめそうだ。

辞職坂の橋のたもとから写真を何枚か撮りそんなことを考えていたが、やはりこの地の厳しさをわずかでも体感したいと考え、日暮れも近く、小雨の降る中、旧道と思われる谷底の道に降りていった。

谷底からの風景は、上から見渡す爽快感とはまるで違い、両側の岩壁が押しつぶすように威圧してくる。三閉伊一揆の切牛弥五兵衛らは、恐らくはこのような風景の中を幾度も往来したのだろう。一揆勢の心象風景の一端が少し見えたような気がした。

三閉伊一揆の資料館…田野畑村資料館

2012.04.01

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三陸沿岸は、源義経の北行伝説以外には、どちらかというと歴史や伝説が希薄な地のような気がする。それはこの地の地形や気候が、極めて厳しく農業には適さず、大きな集落も出来にくかったからだろうか。

しかし、この地での三閉伊一揆は、江戸時代最大ともいえる一揆で、それも一揆側がそれなりの成果を上げえたものとして驚嘆すべきものである。

以前からこの三閉伊一揆には興味を持っており、一揆の頭取の多助の墓を訪ねようと思っていた。北三陸の絶景を観光資源とするこの地では、三閉伊一揆は観光資源としては地味すぎるのかもしれないが、三陸沿岸の住民は、大いに誇りとすべきものだ。

田野畑の集落に入り、多助の墓を地元の方に訪ねると親切に教えていただいた。そして、多助の墓の近くには、三閉伊一揆の資料を集めた「田野畑村民族資料館」があるという。これは嬉しかった。

百姓一揆に関するものは、各地に「義民の墓」などとして残ってはいるが、その多くはアウトローとして扱われており、断片的であることが多い。民衆からの時の権力に対してのレジスタンスであるものの、その多くは悲劇であり、刹那的である。しかしこの三閉伊一揆は10年以上の長期間にわたるもので、集団指導による組織的なもので、戦略的にもすぐれ、それなりの成果も上げている。

この資料館が一揆の資料館であることを聞かなければ、単なる「民族資料館」としてスルーしていただろう。早速訪ねてみた。最初に多助の墓を訪れてから入館しようと職員の方に墓地の詳しい場所をたずねると、近くにあるという。そして親切にも案内していただいた。日曜日にもかかわらず、入館者はだれもいないらしい。多助の墓を取材し、その後館内を見せていただいた。

一揆勢は1万6千人にも達し、それを多助ら数人の指導者が一つの方向性を持たせ長期間戦いえたことは驚くべきことである。それは戦国期の南部信直や伊達政宗にも匹敵するものであり、権力を持たない民衆であることを考えれば、多助らの人物としての器量はそれ以上だったのかもしれない。

資料館を出てからそんなことを考えながら次の予定の「鵜の巣断崖」に向っていると、偶然にもう一人の一揆の立役者の、切牛弥五兵衛の墓を見つけた。墓石に向かい、偉大な平民に挨拶をした。

大津波を跳ね返したのだろう…北三陸海岸

2012.04.01

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野田村で北リアス線の開通に出会い、天気も晴れ渡り、気持ちは久しぶりに浮き立っていた。普代村の義経北行伝説の中心の鵜鳥神社を訪れ、その後は北三陸海岸の景勝地の「普代浜」「黒崎」「北山崎」と訪れた。

北三陸のこの地域の海岸線は、断崖絶壁で形成されており、さしもの大津波もその断崖を越えることは出来なかったろう。この1年、各地で津波の甚大な被害を見せつけられてきた。しかし、あの時の人々の暮らしを押し流した大津波が、この地では断崖にぶち当たり跳ね返された様を想像すると、不遜にも何かしら痛快な思いがした。

晴れた空の下の「黒崎」「北山崎」は、観光地として被害は殆ど受けなかったように見えた。恐らくは誰が見ても美しいと感じる海岸美は損なわれてはおらず、この日は多くの観光客が訪れていた。北山崎では、断崖の途中にある展望台までの急な階段を、帰りの登りのつらさを考えもしないで勇んで下りた。観光地の人ごみがあまり好きではない私も、大津波でも失われなかったその美しさを、多くの方々が愛でていることは素直に嬉しかったし、震災後も十分に美しいその絶景を広く伝えたかった。

この地は、私に晴天の中の絶景を用意してくれていた。青空の下にはるかに続く断崖、突き出た岬、そして小島や岩礁、そこに砕ける白い波。それらは三陸海岸の美しさを際立たせていた。しかしその影のない美しすぎる絶景には、若干の物足りなさも感じ、いつか機会があれば、霧の中や雪の中の三陸海岸も見てみたいと思った。

復興の希望…北リアス線

2012.04.01

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大唐の倉から十符の浦へ出ると、津波は防潮堤を破り、国道を越えて津波の被害が集落にまで及んでいた。十符の浦を見渡せる、かつては小公園だったはずの、倒れた歌碑のある高台から海岸を眺めていた。この地では、津波の威力はすさまじかったようで、海岸沿いの国道沿いでは最も高いこの見晴台を乗り越え押し寄せたようだ。

この地の様子を呆然と眺めていると、地元の方が通りがかり、挨拶をし話を伺った。震災前はこの海岸沿いには松林が続き、絶好の散策路で、震災前は毎朝この地を散歩していたという。津波の被害の話など伺ったが、その中で、北リアス線がこの日に開通し、始発が少し前に走ったということを教えていただいた。朗報だった。

この地を離れ、「西行屋敷跡」を探しながら南下すると、北リアス線の小さな無人駅の「野田玉川駅」を見つけた。この駅で、列車の通過時間を調べると、あと20分ほどでこの地を通るようだ。これを見逃す手はない。すぐに駅の近くに撮影ポイントを探し付近を走りまわると、海岸の谷に掛けられた鉄橋を見つけた。その後ろには三陸の海が広がっている。

残念ながら逆光になるが、贅沢を言っている時間はない。カメラの準備をするとじきに列車の音が聞こえ、白を基調とした三色の二両編成の列車が鉄橋を走り抜ける。駅から発車する列車も撮ろうと、間に合うかどうか、すぐに駅に車を走らせた。

幸いなことに、列車はこの駅で、上り線との時間待ちで停車していた。駅は無人駅でのんびりしたもので、駅のホームに入っても咎められることもない。運転手さんの顔も晴れやかだ。

思えば震災後1年たって、ようやく復興らしい場面に出合ったことになる。この北リアス線は、当然のことながら首都圏の環状線と比較して利用者ははるかに少ないが、この地でははるかに重要な「足」となっている。その後、この日の旅の途中、沿線の各駅ではにぎやかに祝賀行事が行われており、震災の瓦礫の中で、いくばくかの華やかさを見せてくれた。

震災後も日の出は美しい…大唐の倉付近

2012.04.01

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昨日は、一日中雨に降られ、洋野町では予定の箇所を回り終えることができなかったが、久方ぶりの伸び伸びとした歴史散策で、気持ちは充実していた。久慈で一夜の宿をとり、この日は例によって日の出前から動き始め、大唐の倉に向った。

大唐の倉は、平家の落人と高僧が逃れてきた地との伝承があるらしい地の岩塊で、海岸に位置しているはずで、その地から三陸の海に上る日の出を撮影しようと思っていた。暗い内にその地に着き、明るくなるのを待っていたが、薄明かりの中で周りの様子を見ると、津波の影響だろう、岩場の下には行くことが出来ないようで、大唐の倉を入れての日の出は撮影できない。南は津波の被害がむき出しの状態の港である。

すぐさま日の出の撮影ポイントを求めて、県道を北へ走った。小袖海岸方向へ進めば、どこか撮影ポイントが見つかるだろうとの考えだ。岬の小さな峠を越えると、遠くに漁港らしい明かりが見える。その先の岬には小島が重なり、日の出のビューポイントになるかもしれないと車を走らせた。

東の空は赤みが増している。あせる気持ちで岬の先端までくると、岬を回りこむ道路はこれも津波でやられ、通行止めになっている。ここも日の出の方向は津波の被害が広がっている。

今回の旅では、津波の被害をことさら取材する気はなかった。震災後も変わらぬ美しさや、変わらず残る伝説を取材することで、これからのみちのくの心の復興に寄与出来ればと考えていた。しかし志は高いものの、常のごとく、その計画はいい加減で行き当たりばったりだった。

大急ぎでもと来た道を戻り始めたが、すでに東の空の光は増し、あと少しで日の出のようだ。やむをえず車を道路わきに停めて、この地で日の出を撮る事にした。

水平線上にはわずかに帯状の雲があり、その上に日は上るようだ。先ほどの岬の先の小島が見える。道路の下は砂浜で、昨日の荒れた天気の名残か、比較的荒い波が砕ける。砂浜に下りて日の出を待った。雲の端が鋭く光る。日がするすると上っていく。海面に光の柱が立つ。この日、この時間、この地が私に見せてくれる一期一会の光景だ。シャッターを切りながら身内が少し震えた。

九戸の乱の地反骨の城…東大野館跡

2012.03.31

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この洋野町の地は、古くは九戸の乱において争乱になった地のはずだ。種市城は南部方に、東大野館は九戸方に付き争った。

その勢力差がそこそこのものであれば、闘いで雌雄を決するということも分からないではないが、この闘いは、九戸方6千ほどに対して、奥州仕置軍を引き込んだ南部方は6万を越す兵力だったはずで、普通に考えれば九戸方に勝ち目はないものであることは容易にわかっただろう。それにも関わらず、激烈な闘いが起こった。城跡を歩き、その心を知りたかった。

初めに種市城を探した。見当をつけていた場所は小学校だった。城跡としてそれなりの地形もあったが、全体としては納得いかず、標柱も探せない。地元の方に訪ねようにも、雨の中それもかなわない。夕闇はせまりつつあり気持ちはあせり、種市城は次の機会とし、東大野館に向った。

東大野館は、同じ洋野町だが種市からは20kmほどもある。見当をつけていた場所に行ったがこれも見つけることが出来ない。雨も激しくなり、「もはやこれまでか」などと、敗軍の将の気持ちに陥り、久慈に向けて無念の撤退を始めた。すると途中、町の図書館がある。図書館の方に尋ねたがわからない。しかしその図書館の職員の方は親切にも、地域の歴史に詳しい方に電話で尋ねていただき、ようやくその場所がわかった。

図書館からはさほどの距離ではなく、その地を見つけることが出来た。館跡の入り口には古木と古い鳥居があり、地元の人が立てたらしい説明板があった。しかし日は暮れかかり、残雪を踏み分けて登るだけの時間はすでになかった。私有地らしく、個人が管理しているようだが、館跡は公園として開放されているようだ。ありがたいことだ。このような方々が、地域のプライドを後世に伝えてくれているのだ。

雨は小降りになっていたが、日は暮れかかり、ズボンは濡れ、雪に踏み込んだ靴の中はもうぐちゃぐちゃだった。残雪で斑模様の館山を撮影し撤退となった。

破られなかった防潮堤…種市海岸

2012.03.31

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種市海岸は、海水浴などのための海浜公園になっているはずだった。当然、津波の被害を受けているはずだ。その被害の様子は正直見たくはなかった。しかし、途中の海岸にごく近い家屋は被害にあっているようだったが、この町で犠牲者は出なかったらしい。不幸中の幸いである。

これまで、気仙沼や南三陸町の圧倒的な津波被害の状況を見てきた目には、被害が軽微に見える。もちろん、この地域の産業などに与えた影響は甚大なものだろうが、今度の震災は、それが軽微に見えるほどの巨大なものだったということだ。

種市海岸に着くと、防潮堤が続き、ゲートは閉められていた。海浜公園は防潮堤の向こう側らしい。コンクリートの壁は破られなかったらしい。

今回の津波では、巨大な防潮堤は各地で破られ、その被害を甚大なものにした。人間の力など自然の前には非力なもので、それを思い知らされるものだった。しかしその思いとは別に、この地の破壊されなかった防潮堤は、営々とした人間の営みが、それなりに無意味なものではないことを表してもいる。

コンクリートの塊は、それなりに人間の暮らしを救いもするが、人間がそれで自然を支配したつもりになれば、自然は手ひどく人間を打ち据える。今回の原発被害も同様だろう。人間はウラン燃料を圧力容器の中に閉じ込め、支配コントロールしていたつもりが手ひどい反撃を受けた。

人はその生活を守るために、場合によってはコンクリートの壁を巡らさなければならないこともあるだろう。しかしそれは、自然に畏敬の念を持ち、自然との対話の中から出てくるものでなければならないものと思う。

雨の中、防潮堤の上に上り、外に広がる海浜公園を眺めた。やはり公園は津波に流され、打ち破られ、無残な姿をさらしていた。それでもこの防潮堤はこの地の人々の暮らしを守ったのだ。感謝の念を持ち、土砂降りの雨の中、この防潮堤をカメラに収めた。

雨の中の砲台跡…有家御台場跡

2012.03.31

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久慈を一旦離れ、青森県境の洋野町に向かった。途中麦生御台場跡を探し、思いのほか時間をとってしまったが、地元の方に雨の中親切にも案内していただき、なんとか写真に収めることができた。

南部藩は、この三陸海岸沿いに28ヶ所ほどの砲台場を設置したとされ、洋野町の有家にも砲台を設置していた。有家御台場跡に着いたときは、土砂降りの雨で、まだ日中にもかかわらずうす暗くなっていた。

今回の歴史巡りでは、この洋野町が最も遠隔地で、この日の内になんとか洋野町の数ヶ所を回り終えて、次の日の行程にそなえて南下したいと考えていたため気持ちはあせっていた。しばし車の中で待機し、雨足が弱まるのを待った。

雨が弱まったのを見計らい、カメラを濡らさないようにビニール袋に入れて、飛び出した。急いで御台場跡の小高い丘に登った。丘の中腹には砲台跡の土塁状の地形が見られる。シャッターを押しカメラに収める。地形を吟味している余裕はない。大粒の雨が落ちてくる。

車を置いた下の道路の下は断崖絶壁になっており、前面には太平洋が広がり、晴れていれば絶景だろう。しかし、すでにズボンはぐちゃぐちゃで、靴の中まで水がしみこみ、厚く垂れ込めた雨雲に光は遮られ、強くなった雨の中、雨の風景の趣を楽しむ余裕などなくなっていた。

時間にゆとりがなく、光が少なくなると、人間は少し不安を覚え心に余裕がなくなるのかもしれない。そんな中で撮った写真が良くとれているはずもないが、この御台場が築かれたのは、異国船打払い令が出され、時代が風雲急を告げ始めた時代である。それを考えれば、撮った写真はそれにふさわしいものになっているかもしれないなどと、妙な気慰めをしながら、次の目的地の種市海岸に向った。

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