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陸奥国府は福島の信夫郡にあった??⑦

2011.10.14

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さて、ここまでで十分だろう。

地元の方が、地元史を掘り下げていくとき、定説との矛盾点に対し、どうしても歴史の中心を地元においてしまう傾向がある。H.Yさんの「論」も、「信夫郡に国府」「奈良、平安時代の国府も信夫郡」「平泉藤原氏の拠点も実は信夫郡」など、多分にその傾向が私には感じられる。歴史の「定説」における矛盾は、私も常に感じることがある。しかしその「定説」に異議を唱えるとき、大局的な歴史の流れはどうなのか、またその「定説」に達した議論の流れ、他地域の同様な伝承や資料の掘り下げなど、やるべきことは多い。

ここまでの私の検証の結果としては、大和朝廷の陸奥支配機構として、「国府」は多賀城に置かれた。名実ともに意味を持っていたのは、東北では蝦夷に対するもので、武士が力を持つようになってからは、その意味合いは象徴的なものと化していったものといえる。

「陸奥国府」の場合は、源頼義、義家の時代までが実質的な「国府」であり、それ以降は「権威」としての象徴的なものになった。江戸時代には、伊達家が「陸奥守」を歴代称するが、もちろん仙台城が国府であろうはずもない。

源頼朝が平泉征討のときに多賀城に入り、その後、伊沢家景を留守職として置いたということは、頼朝は多賀城を陸奥支配の象徴的な要として考えたからだろう。

その後、南北朝期に入り、南朝方は、奥羽の諸勢力(南部、葛西、伊達、白河結城など)を糾合するため、義良親王や国司北畠顕家が奥羽の支配の象徴としての多賀城に入り、軍事的に限定したものではあったが、一時的には「国府」として機能した。

しかし、「国府」は、律令制をその存在基盤とすると考えれば、現実的には、「陸奥国府」は、奈良時代から平安時代の後期までのものと考えるのが最も妥当と思われる。

もちろん「国府」が福島の信夫郡にあったということは考えにくく、信夫郡にあるとされる、「国府」に関する記載や地名、伝承などは、藤原秀衡や霊山城に関わるものと考えられ、それはそれで興味深いことである。それを掘り下げていくことは意義深いことであり、その意味で、福島市在住らしいH.Yさんの「信夫郡国府説」にエールを送るものである。

※写真は南北朝期の留守氏の拠点の岩切城、陸奥一ノ宮の塩釜神社、震災前の冠川河口の夕日

<終り>

陸奥国府は福島の信夫郡にあった??⑥

2011.10.14

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平泉藤原氏は、国司ではなかったが「陸奥目代」として、実質的な統治者となり、その政務は平泉を拠点として行われたと考えられる。後三年の役を共に戦った、源義家の郎党や、国衙領や荘園の官人を被官化し、また政略結婚で一族に取り込むなどで、その勢力をさらに強固なものとしていった。

また、子の多くに所領を与え各所に配し、地歩を固めている。例えば西木戸太郎、本吉五郎、日詰六郎などがそうであり、藤原四代の泰衡も伊達を冠していたことがある。またここで問題の福島の信夫郡の信夫庄司佐藤基治は三代秀衡の妹の(異説あり)乙和姫を妻とし同盟関係を結び、あるいは臣従した。

平泉藤原三代は、実質的に奥羽を統治し、その伝説も広範囲にわたる。このような藤原氏が、その支配下の地で、「国司」として遇されたことは当然に推測され、信夫郡に「国司」「国府」に関わる地名や伝説があったとしても不思議ではない。

しかしその強大な勢力を、鎌倉が放置しておくわけもなく、奥州合戦につながっていく。その詳細は省略するが、この時期のことは、歴史資料としては一級品とされる「吾妻鏡」記されている。この吾妻鏡には、多賀城国府の記載はあるが、信夫郡の「国府」の記載はない(見つけていない)。

「吾妻鏡」によれば、源頼朝は、文治5年7月29日(旧暦)に白河関を越え、8月7日、阿津賀志山に陣取る藤原国衡に対し国見に陣取る。この間、H.Yさんが主張する信夫郡の「国府」に入ったという記載はないし、平泉藤原氏の信夫郡の本拠の「~御所」に入ったなどという記載ももちろんない。このとき信夫郡に「国府」や藤原氏の本拠があったとすれば、その国府や本拠館に入ることは、陸奥の統治上重要なことで、その記載がないということは、信夫郡に「国府」や、まして藤原氏の「本拠」は存在しなかったと考えるのが妥当である。

頼朝は阿津賀志山の平泉勢を破り東街道を北上し、途中平泉勢を打ち破りながら、8月13日多賀城の国府に入った。
『8月13日 庚子、比企の籐四郎・宇佐美の平次等出羽の国に打ち入り、泰衡郎従田河の太郎行文・秋田の三郎致文等を梟首すと。今日、二品多賀の国府に休息せしめ給う。』

また、8月15日付けの頼朝自身の文書があり、
『頼朝(花押)、あすは、こふ(国府)のこなたにちむのはらといふところニ御すく候へし、いくさたちニハ、こふ(国府)にはすくせすと申なり、かまへてひか事すな、あかうそ三郎を、やうやうニせん…』とあり、この時期の源頼朝は、多賀城を「国府」として認識している。

※写真は信夫庄司佐藤基治の大鳥城、頼朝が陣を敷いた国見藤田城、阿津賀志山防塁

続く---->

陸奥国府は福島の信夫郡にあった??⑤

2011.10.13

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ここから先は、主に平安時代の「国府」について考える。平安時代には蝦夷の反乱に対して、多賀城は次第に軍事的な色彩を強くしていく。田村麻呂の時代には、アテルイが官軍を悩ませた。朝廷は、宮沢官衙や胆沢城、紫波城を築くなど拠点を北上させていく。

その中でも、宮沢官衙遺跡は、多賀城の1.5倍、出羽国府秋田城の4倍もある。この当時は、多賀城は軍事的な後方支援基地の役割が多かったろうと推測でき、場合によっては、宮沢遺跡などは、国司の移動により、単に城柵としてだけではなく場合によっては国府の機能も持ったかもしれないとは思うが、官軍が北上する中、国府が多賀城から福島信夫郡に後退するなどは考えられない。

いずれにしても、この官軍の蝦夷討伐は、坂上田村麻呂の時期、桓武天皇の判断により、主に財政的な理由で征夷は中止される。このため奥六郡は当面朝廷の手の届かない地になり、古い時代に朝廷から派遣された阿倍比羅夫を祖とするとされる安倍一族の支配するところとなり、朝廷は半独立状態の奥六郡を認めるしかなく、これがその後の前九年の役につながっていく。

この前九年の役と、それに続く後三年の役の詳細については省くが、安倍氏は表面的には多賀城国府に従っており、多賀城周辺や宮城県南部はもとより、勿来の関など福島県にも平和な時期の伝説を残している。しかしその勢力は奥六郡を越え、平泉藤原氏の祖である、宮城県亘理の官人の藤原経清と姻戚関係を持つなど、勢力を拡大していた。そして遂に官軍と安倍氏は衝突し、それに対し朝廷は、本来武官である源頼義を国司として多賀城国府に送り、頼義は義家とともに、出羽の清原氏の助けも得て、各所での戦闘の末安倍氏を下す。

さらにその後の後三年の役では、源義家が「陸奥守」となり戦い、出羽の清原氏を下し、藤原清衡を陸奥国府の目代とし都へ引き上げる。このとき、源義家の清原氏との戦いは私闘とされ、このため義家は自分の責任で鎌倉権五郎など多くの家臣に恩賞として所領を与えている。これらの義家の家臣の多くは、その後平泉藤原氏と結び、あるいは被官となり、または従属し、その後の奥羽に一定の勢力を持つようになる。

この源義家の「陸奥守」の時が、実際上の国司としては最期であり、多賀城国府も形式的なものとなり、奥羽の政治の中心は平泉に移ることになる。H.Yさんは、この藤原氏の拠点も福島信夫郡にあったと考えているが、それはないだろう。陸奥に残った藤原清衡の勢力基盤は、出羽の清原氏と安倍氏の旧地である。遠く離れた福島信夫郡に本拠を置いたとすれば、それにふさわしい大きな理由がなければならない。

このときの藤原清衡の立場は「陸奥目代」で、国司ではないが、国司の代理として陸奥の国人勢力や官人を束ねることはできる絶妙な立場だった。また平泉の地は、国司不在の陸奥で、白河以北と出羽を見通すのには絶妙な地といえる。その意味で、平泉は「国府」ではないが、陸奥を統治するという意味合いでは、実質的には「国府」的な役割は持ったはずだ。

いずれにしても、後三年の役で、奥羽の地は平泉藤原氏と源義家の家臣らにより領地化され、実質的に律令制は崩壊し、国府は形式的な権威だけを残し名実ともに消えたと考えられる。

※写真は宮沢遺跡、胆沢城跡、紫波城址

続く---->

陸奥国府は福島の信夫郡にあった??④

2011.10.13

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ここまでは、主に鎌倉時代と室町時代に関して、「国府」は、南北朝期の一時期、限定的に存在はしても、全体としては信夫郡にも多賀城にも、実質的な「国府」と言えるものは、その「定義」に照らして存在しないと云うことを言ってきたつもりだ。

しかしH.Yさんは、奈良時代、平安時代にも福島の信夫郡に「国府」があったと考えられている。その論はかなり無謀だと思いつつ、その根拠を伺う前に、私が従来の歴史観に毒されており、不勉強であると云うことから議論は打ち切られてしまった。ここから先は、続くはずだった奈良時代、平安時代には国府は多賀城にあったということを不勉強ながら、準備した資料もあるので、論証していこうと思う。

奈良時代と平安時代の後三年の役までの間は、まがりなりにも律令制は存在し、またその他に「陸奥国府」には蝦夷への軍事的対応をしなければならない大きな役割があった。この時代の多賀城は、「中央から派遣された官吏が、令制国の政務を執る施設(国庁)が置かれた都市」という定義に表面的には合致する。

現在の多賀城は、調査の結果、政庁を持ち、街路が延び街区が形成され、一定の区域内に国司館跡とされる(木簡が出土)山王遺跡があり、また当時の「国府」にはつき物の付属寺院の多賀城廃寺跡、総社神社、さらにその外側には、陸奥一ノ宮の塩釜神社、大小の窯跡、製鉄所跡、さらには国府の湊といわれる塩釜の浦、鴻ヶ崎(国府ヶ崎)があり、多賀城までの物資の運搬路としての冠川に接続している。その様相は「令制国の政務を執る施設(国庁)が置かれた都市」に誠にふさわしい。

もちろんそれだけではない。いくつかの決定的ともいえる物証がある。その一つは、この地から出土した多数の木簡で、それらは事細かな中央とのやり取りを今に伝えている。もう一つは、鴻ヶ崎近くの古社の鼻節神社から発見された「国府厨印」である。多賀城からは少し離れているが、多賀城の留守職で、南北朝期には南朝方だった留守氏の支城のあった地で、争乱の時期にこの地に隠し置いたものと考えられる。

さらにもう一つは、松尾芭蕉も立ち寄ったことで有名な壷ノ碑である。この壷ノ碑は、天平宝字6年(762年)12月1日に、多賀城の修築記念に建立されたと考えられるものだ。内容は、各地から多賀城までの行程を記す前段部分と、多賀城が大野東人によって神亀元年(724年)に設置され、恵美朝狩(朝獦)によって修築されたと記された後段部分に分かれる。大野東人は、参議陸奥国按察使兼鎮守府将軍で、当然「国司」である。この壷ノ碑には、明治時代に真贋論争が起こったが、現在は「真碑」として国重文に指定されている。

その他、多賀城の周辺には、大野東人や坂上田村麻呂、大伴家持、源融、藤原実方らの伝説や、官人の生活や信仰などもふくめた伝説が重層的に存在し、多賀城「国府」を支えている。

これらの物的証拠、状況証拠を「捏造」と主張することも可能ではあるが、これらの膨大な「証拠」を全て検証しても、ほとんどは検証済みで、捏造とする決定的な根拠はまず出てこないだろう。その意味でH.Yさんが言う『奈良時代、平安時代にも福島の信夫郡に「国府」があった』とする論は、かなり無謀だと感じる。

※写真は多賀城廃寺、陸奥総社宮、山王遺跡、湊浜(鴻ヶ崎)

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陸奥国府は福島の信夫郡にあった??③

2011.10.13

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次にH.Yさんの根拠③である。

南北朝時代、南朝方の義良親王(後の後村上天皇)と「陸奥守」北畠顕家らが多賀城に入り(H.Yさんは多賀城には行っていないと考えているようだが)南朝方の拠点となったと考えられる。南部氏、葛西氏、結城氏、伊達氏らの大勢力を味方にし、一時は京まで攻め上り足利尊氏を敗走させたが、その後次第に北朝方に押され、拠点を福島県伊達市の霊山城や郡山市の宇津峰城に移した。

このときの「国司」は北畠氏であり、南北朝に分かれているとはいえ、国司の定義の、『中央から派遣された官吏』に合致しており、また、ほぼ軍事的なものだけではあるが『令制国の政務を執る』ことはしている。しかし「国府」の本来の目的の、律令制下での民政が行われていたとは考えにくく、もっぱら北朝方に対する軍事的な意味での政治であり、民政に必要な意味で国府の定義である『政務を執る施設(国庁)が置かれた都市』ではなかったと思われる。まして霊山城や宇津峰城は、戦いのための巨大な山城であり、「国府機能の一部を持った山城」と言うのが正確だろう。

その意味では、南北朝期に、律令制の復活を目指す南朝により、国府の一部は復活したと言っても良いと思うが、福島県においては、伊達市の霊山城に一時的に存在したということで、律令制が復活することはなく、結局武家政権が続いていくことになる。

この時点まで、鎌倉時代の地頭らは、地方に実際に下向し、地域に根を張り、国衙領や、荘園を「領地」とし、地方の官人らを家臣に組み込み、南北朝期の争乱では周辺地頭をも飲み込みながら勢力を拡大していた。この勢力拡大のための手段として、奥羽の地頭たちは朝廷や幕府に働きかけ、「陸奥守護」や「秋田城介」などの官職を得ていくが、当然それは実態とは別物である。

伊達市の霊山城には、「国司沢」や「国司池」といった名称が残る。このような地名の分布は、「国府」と無関係ではないが、直接的に国府の存在を示すものではなく、その時代状況を見定めながら考えなければならないと思う。

私は、この霊山城の地の他に、福島県信夫郡に「国府」に関する地名があるかどうかについては不勉強で知らないが、福島の地にそれらが多くあるのだとすれば、それは、藤原秀衡の居館を「御所」と称したように、「陸奥守」藤原秀衡にしたがっていた信夫庄司佐藤基治に関わるものか、霊山城の国司の北畠氏に関わるものか、もしくは、戦国期にその官職と政略結婚により勢力を拡大しようとた伊達稙宗に関わるものと考えられる。

※写真は霊山城国司沢、霊山城国司池、宇津峰城千人溜り、宇津峰城の朝焼け

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陸奥国府は福島の信夫郡にあった??②

2011.10.13

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次にH.Yさんの根拠②である。

源頼朝は、平氏勢力の制圧後、平泉攻めにかかる。このとき、H.Yさんの云うように、「源頼朝の奥州攻めの時の宣旨で、東国の国衙領、荘園の回復を条件に許可し」であったが、これは平泉征討軍を挙げた後であり、云わば鎌倉による朝廷への「恫喝」の結果であったはずだ。

H.Yさんは、これは「国府」の根拠の「律令制」が部分的にでも残ったと考えているのかもしれないが、現実的には平泉制圧後は、関東の御家人を中心として大量に奥羽各所に地頭として入り、国衙領や荘園を「領地」化されていくことになる。それでも承久の変までは、それなりに朝廷側も抵抗していたようだが、それ以降は奥羽各所は地頭の「領地」となり、国衙領や荘園の官人は被官化されていった。

また鎌倉時代後期に北条(大仏)貞直が「陸奥守」になっており、H.Yさんは福島県庁の地にあった、行基の建てた大仏殿の跡に建てられたとされる「大仏城」が、この北条貞直を「国司」とした「国府」であったと考えているようだ。もちろんこのときの「陸奥守」は国司の定義の『中央から派遣された官吏』であるはずもなく、鎌倉が決め形だけ朝廷を通したものだろう。また律令制度もすでに完全に崩壊しており、「令制国の国司が政務を執る」状態ではなかったはずで、一時的にも大仏城に入ったかどうかすら怪しいものと思う。

この鎌倉時代に、「国府」が形だけでも残りえたとすれば、鎌倉時代のごく初期の段階だけで、それでも「国府」の定義の中の『令制国の国司が政務を執る施設(国庁)が置かれた都市を指す』とは程遠いもので、形式的、限定的なもので、江戸時代の大岡越前守と殆ど差のない栄誉職的なものだったと考えられる。

※写真は平泉金色堂、平泉義経堂、福島大仏城跡

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陸奥国府は福島の信夫郡にあった??①

2011.10.13

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先日、このサイトに、福島市在住らしいH.Yさんから、「多賀城にあったとされる陸奥国府は、奈良、平安、鎌倉、室町各時代を通じ、実は現在の福島市にあった」というメールをいただいた。

元来、そのような話は好きなので、早速返事をし、その根拠となるような話を伺いながら、現在の定説を支えている膨大な状況証拠、物的証拠、多賀城周囲の史跡群、伝説などについてもお考えを伺おうとしたが、H.Yさんの事情から導入部の話だけで終わりになってしまった。折角なので、H.Yさんとのやりとりも含め、準備した資料なども紹介しながら、ここで一人論を進めようと思う。

「国府」とは、そもそも大和朝廷が、その律令制度の中で、律令で定めた「国」を統治するために、中央官人を派遣したもので、まず歴史上の用法では、
「国司」とは、『中央から派遣された官吏で、四等官である守、介、掾、目等(wikipediaより)』
「国府」とは、『日本の奈良時代から平安時代に、令制国の国司が政務を執る施設(国庁)が置かれた都市を指す(wikipediaより)』

と考えるのが現在のいわば「定義」である。H.Yさんのお考えの中での、鎌倉、室町時代の「陸奥国府」については、律令制度は崩壊しており、「国府」の存在意味はなかったはずだ。平安時代の末期、恐らくは後三年の役の後には「陸奥国府」は有名無実化し、まして律令制下の国衙領や、荘園までも実質的には御家人の「領地」となる鎌倉時代以降は、多賀城にも福島にも存在しなかったと考えるのが妥当と思える。

H.Yさんが、「福島陸奥国府」説の根拠としてあげているものは、
①『藤原4代藤原泰衡は伊達泰衡と記述され、佐藤嗣宣が八島の合戦に出向くとき信夫郡の国府台で餞をされたという記述がある。』
②『源頼朝の奥州攻めの時の宣旨で、東国の国衙領、荘園の回復を条件に許可し、陸奥国の国衙領は名目上朝廷側支配となり、陸奥守が現実に存在した』
③『南北朝動乱の後の和睦で、国衙、国衙領は南朝方に、天皇は南朝、北朝で交互にたてるという条件だったのが守られず、伊達持宗らが現在の福島県庁の地の大仏城に立てこもりその後北朝支配の大仏城は南朝側支配するところとなった』
などが挙げられた。

これらの内、①については、平安時代末期の平氏政権は、鎌倉の源頼朝をけん制することを目的に朝廷にはたらきかけ、藤原秀衡を「陸奥守=陸奥国司」に任じた。しかしこれは「定義」にもあるように「国司は中央の官吏を派遣」していたのが通例であり、また律令制はこの時期にはほぼ崩壊しており事実上の武家政権であった平氏政権が決定したもので、朝廷内には不満を持つ者が多くあったらしい。つまりこの「陸奥守」は江戸時代の大岡越前守や直江山城守に通じる栄誉職で、「実」があったものとは思えない。

それでも「名」だけでも「陸奥守」であり「国司」であり、その館は尊敬をもって「御所」と呼ばれたのだろう。この藤原秀衡が立ち寄った先や関連した箇所に、「国司」や「国府」の地名や伝説が残っていてもなんら不思議ではない。つまり「国府台」を直接「国府」に結び付けるには無理があるということになる。

※写真は多賀城政庁跡、多賀城廃寺跡


続く--->

勝手に推測、比良穂城パズル②

2009.09.12

ここでは、「嵯峨天皇のゆかり」をどう解くかと言うことになる。

52代嵯峨天皇は、桓武天皇の第二皇子で、51代平城天皇の同母弟になる。806年に即位した平城天皇と父の桓武天皇との折り合いは悪かったようで、平城天皇には二人の皇子がいたが、即位の際には、桓武天皇の意向により、嵯峨天皇が皇太子となった。平城天皇は、皇太子時代から藤原薬子と不倫の仲になり、さらに薬子は他の貴族とも通じていたとされ、桓武天皇はこれに怒り、薬子を東宮から追放した。

806年、桓武天皇が崩御し平城天皇が即位すると薬子は戻され、再び平城天皇の寵愛を受けるようになった。薬子の夫の藤原玉縄は九州へ飛ばされ、薬子は兄の藤原仲成とともに政治に介入し専横を極め、兄妹は人々から深く恨まれた。病気がちだった平城天皇は嵯峨天皇に譲位し平城京に移ったが、藤原仲成と薬子は、退位した平城上皇の複権を目的に平城京遷都を謀った。これに対し、嵯峨天皇は薬子の官位を剥奪し、平城上皇は薬子とともに挙兵のために都を逃れる途中、坂上田村麻呂により阻止され、平城上皇は敗北をさとり剃髪し、薬子は自害、藤原仲成は殺された。

これは、いわゆる「薬子の変」の流れであるが、嵯峨天皇と奥羽とのつながりがあるとすれば、征夷大将軍の坂上田村麻呂とのつながりだろう。この「薬子の変」の一連の流れから、暗殺される恐れがあった嵯峨天皇を、桓武天皇の遺志に沿って坂上田村麻呂が、その勢力圏の山形県金山の「比良穂城」に匿ったと推測する。

また嵯峨天皇が身の危険を感じたとすれば、それは父の桓武天皇が崩御した806年から嵯峨天皇の即位の809年までの3年間だろう。当然、平城天皇もすんなりと譲位したわけではないだろうことは想像に難くない。しかし坂上田村麻呂をはじめとした、薬子、藤原仲成の専横を良しとしないものたちが、平城天皇を退位に追い込んだと考えるのが妥当だろう。

このような朝廷内の争いの際には、奥羽の「辺境」の地は、宮廷人の避難の場所として史実として、あるいは伝説として良く出てくる。古くは出羽三山を開いたとされる蜂子皇子、南北朝期に多賀城に下った後村上天皇、は現在定説になっており、伝説としては染殿后藤原明子、護良親王、長慶天皇など挙げれば枚挙にいとまがない。

この「パズル」では、「比良穂城」は、坂上田村麻呂の勢力が築いた蝦夷に対する城砦で、「薬子の変」までの一連の流れの中で、皇太子時代の嵯峨天皇が坂上田村麻呂により保護された城と解いた。もちろん史実としてこれが正しいと言うつもりはない。もしこれが史実なら、山形県金山町にはこれを補強する伝承や、このことに由来する神社などがなければならないと思う。質問者から与えられた「山形県金山町朴山の比良穂城」「嵯峨天皇にゆかり」のたった二つのキーワードから、筆者が楽しんだ個人的な「パズル」として収めていただきたい。

勝手に推測、比良穂城パズル①

2009.09.11

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先日、山形県金山町の方から「比良穂城」についてのご質問をいただいた。あちこち歩いてはいても「比良穂城」にはとんと行き当たったことがなく、質問者が分かっている範囲でキーワードをいただいた。キーワードは、場所的には、山形県金山町朴山付近、嵯峨天皇にゆかりがある、とこの二つだけである。

これを調べるうちに、史実がどうかは別にして、小説家的にパズルが組みあがっていくような楽しみを覚えた。ここに書いていくことは、私のパズルの楽しみ方と思ってご覧いただきたい。あとで、金山町史と比較して、さらに楽しみたいと思う。

嵯峨天皇の在位は、西暦809年~823年である。この時期に奥羽の地と大和朝廷との関わりでは、坂上田村麻呂が、征夷大将軍として蝦夷を討ってこれを下し、802年に胆沢城、803年に志波城を築いた時期である。嵯峨天皇の時代の城であれば、それは蝦夷に対する大和朝廷の城砦と推測できる。

この坂上田村麻呂の遠征に先立つことおよそ50年前、大野東人が宮城県の色麻柵で6000の大軍を整え、奥羽山脈を越えて金山の「比羅保許山(ひらほこやま)」のふもとに陣取り、この地の蝦夷を恭順させた。そして、多賀城から出羽柵までの道を開き、雄勝柵を造営し、金山町には「平戈(ひらほこ)」の宿駅が置かれたようだ。この「比羅保許山」は、神室山とも竜馬山とも言われているが、宿駅は平地に設けられたと推測され、つまり今の金山町の全域が「平戈」の地と考えられていたはずだ。

当時の地名を表す漢字には、ほとんど意味はなく、万葉仮名のようにヨミとして使われていたことを考えると、「比羅保許」も「平戈」も同じ地名と考えるのが普通であり、命題の「比良穂城」もこれに通じるものがあり、ここから「比良穂城」は、金山の地の、蝦夷に対する古代の大和朝廷の城砦であると推測できる。

「比良穂城」の築城時期は、恐らくは蝦夷の抵抗が激しくなり、秋田城がその機能の一部を停廃止した803年頃、大和朝廷の前線の城砦として、坂上田村麻呂の勢力により、岩手県の胆沢城、志波城と同時期に築城されたものだろう。

ここで、もう一つの命題の「嵯峨天皇とのゆかり」についても考えて見る。

=続く=

写真は竜馬山と金山の町並み

政宗、何故!小手森城撫で斬りの理由③

2008.08.03

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小手森城の後方には、大内定綱を支援する葦名、畠山、二階堂、佐竹などの援軍が陣を張っていた。負けるわけには行かなかった。政宗にとってこの戦に負けることは、伊達氏周辺の大小名の伊達からの離反を招き、伊達氏内部からもその存在を全否定される恐怖があったと思う。
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