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さて、ここまでで十分だろう。
地元の方が、地元史を掘り下げていくとき、定説との矛盾点に対し、どうしても歴史の中心を地元においてしまう傾向がある。H.Yさんの「論」も、「信夫郡に国府」「奈良、平安時代の国府も信夫郡」「平泉藤原氏の拠点も実は信夫郡」など、多分にその傾向が私には感じられる。歴史の「定説」における矛盾は、私も常に感じることがある。しかしその「定説」に異議を唱えるとき、大局的な歴史の流れはどうなのか、またその「定説」に達した議論の流れ、他地域の同様な伝承や資料の掘り下げなど、やるべきことは多い。
ここまでの私の検証の結果としては、大和朝廷の陸奥支配機構として、「国府」は多賀城に置かれた。名実ともに意味を持っていたのは、東北では蝦夷に対するもので、武士が力を持つようになってからは、その意味合いは象徴的なものと化していったものといえる。
「陸奥国府」の場合は、源頼義、義家の時代までが実質的な「国府」であり、それ以降は「権威」としての象徴的なものになった。江戸時代には、伊達家が「陸奥守」を歴代称するが、もちろん仙台城が国府であろうはずもない。
源頼朝が平泉征討のときに多賀城に入り、その後、伊沢家景を留守職として置いたということは、頼朝は多賀城を陸奥支配の象徴的な要として考えたからだろう。
その後、南北朝期に入り、南朝方は、奥羽の諸勢力(南部、葛西、伊達、白河結城など)を糾合するため、義良親王や国司北畠顕家が奥羽の支配の象徴としての多賀城に入り、軍事的に限定したものではあったが、一時的には「国府」として機能した。
しかし、「国府」は、律令制をその存在基盤とすると考えれば、現実的には、「陸奥国府」は、奈良時代から平安時代の後期までのものと考えるのが最も妥当と思われる。
もちろん「国府」が福島の信夫郡にあったということは考えにくく、信夫郡にあるとされる、「国府」に関する記載や地名、伝承などは、藤原秀衡や霊山城に関わるものと考えられ、それはそれで興味深いことである。それを掘り下げていくことは意義深いことであり、その意味で、福島市在住らしいH.Yさんの「信夫郡国府説」にエールを送るものである。
※写真は南北朝期の留守氏の拠点の岩切城、陸奥一ノ宮の塩釜神社、震災前の冠川河口の夕日
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